1 作者不詳  「撒兒木人・阿勒戀人図」 



寺嶋哲生(千葉県柏市) 
公益財団法人 摘水軒記念文化振興財団

作者不詳  「撒兒木人・阿勒戀人図」  肉筆紙本彩色  26.7×29.2㎝ 制作年不詳

桃山から江戸時代初期にかけて流行した西ヨーロッパ文化の影響を受けて成立した美術を南蛮美術と呼びます。南蛮美術に属する絵画には、いわゆる南蛮屏風と総称される作品群、すなわち南蛮船や南蛮人・南蛮渡来の文物への強い好奇心に促されて描かれた絵画があります。その一類型に、万国絵図屏風(宮内庁三の丸尚蔵館)に代表される世界地図に合わせて世界中の様々な民族を描いた作品や、万国人物図(神戸市立博物館)の様に様々な民族のみを描いた画帖があります。
撒兒木(サルモ)人・阿勒戀(アセレン)人なる民族を描く本図は、元は更に多くの民族を描いた画帖あるいは巻子の断簡と思われ、南蛮美術の影響下にある原図に基づく後世の写しと考えられます。画中に、撒兒木人・阿勒戀人に対する注釈が書き込まれていますが、それが現実にどの民族を表しているのかは、寡聞にして不明です。

2 三宅克己(1874~1954) 「伊豆(雨後)」



福井 豊(東京都荒川区)

三宅克己(1874~1954) 「伊豆(雨後)」  水彩  紙  18.5×26.5cm  制作年不詳

俄か雨が止んで雨雲が遠のいていく。高みから見た木々の緑や海岸の波打ち際の白波が再び視界に入ってくる。そんな時間を手早く捉えた作品だ。元額の額裏に戦後の西銀座・日動画廊のシールが貼られているが、釘留めの錆具合などから作品自体も画家が真鶴に移り住む前後の大正末から昭和初の制作と考えている。初期水彩専門画家として明治38年の著作「水彩画の手引」などの技法書のほか、大正期には複数のアマチュア向け写真技法書を著す写真の専門家でもあった。そのためか露出を絞り込んだ風景や、ぼかしなど光の効果を狙ったこのような水彩が多い。大下藤次郎との交流は岩本昭氏の名著「わたし流美術館」の彼らの章末に二人の夫人についてエピソードがある。ご興味ある方はぜひご一読を! 

3 大下藤次郎(1870~1911) 「里の秋」



福井 豊(東京都荒川区)

大下藤次郎(1870~1911) 「里の秋」  水彩  紙  18.5×26.5cm  1897年制作

115年前の明治30年の作品。無題であったので勝手に画題を「里の秋」と命名した。一面の黄金色に稔った稲田の向こう遠くには赤茶けた山が聳えている。何処を描いたものか不明であるが昔の日本の農村ならどこでもこのようであったろうと思わせる、なぜか懐かしい風景である。ある意味、日本の原風景といってよいのかもしれない。いまでは見ることのない案山子(かかし)も点在している。画家が独自の画風いわゆる「點画」を立ち上げる以前の比較的初期の写生作品である。画家による明治34年の「水彩画之栞」、明治38年の雑誌「みづゑ」の発刊などによって以降わが国の水彩画は隆盛期を迎えるが、画家は常にその中心にいて普及育成に努め、少数だが後継の水彩専門画家も輩出させている。

4 大下藤次郎(1870~1911)  「橋」



松尾陽作(千葉県我孫子市)

大下藤次郎(1870~1911)  「橋」  水彩  紙  24.5×35.2cm  1911年制作

大下藤次郎は水彩画の名手としても名高いが、雑誌「みずゑ」の創刊者として水彩画の普及に尽くした功績は非常に大きい。しかし乍ら、41歳の若さで死んだ。
小生、不勉強で、この絵の描かれた場所、制作した年代等も把握しておらず、ただ「仲々素晴らしい絵、水彩画ならではの雰囲気も良く出ている絵」と云うことだけで買ったものであった。
ところで、極く最近、美術出版社発行、上居義次著「水彩画家 大下藤次郎」を開いたら、何んとそこ(217ページ)にこの絵が、載っているではないか!---「松山新立橋」1911年(明治44年)制作。(この絵を描いた数か月後に、本人は死んでいる)
なお、この絵の以前の所蔵者は長兄、大下徳太郎と記入・印が裏面に貼付されており、仲々得難い貴重な絵を入手出来たと独り喜んでいる次第である。

5 浜田葆光(1886~1947) 「夏の森」



松尾陽作(千葉県我孫子市)

浜田葆光(1886~1947) 「夏の森」  油彩  キャンバス  F15  制作年不詳

浜田葆光については、以前に当会の堀良慶氏が大変良い作品を出品されていて、後追い真似っ子みたいで気が引けるので、これを出品するのを一時は、ためらった。
その際、同氏も記しているように隠れた大変な名手であるにも拘わらず、世間的にはあまり知られていない。それで、あえて、今回、私も出品したもの。夏の樹々の緑の諧調の描写、中々のものと思いませんか!

6 中澤弘光(1874~1964) 「富士山」



佐藤裕幸(東京都品川区)

中澤弘光(1874~1964) 「富士山」  油彩  キャンバス  P10  1915年制作

山中湖より見た富士山、山紫水明の地である。
季節は初夏であろうか、山容を湖に映し実に美しい。
日本の原風景とも言えるこの景色をいつまでも残しておきたいものである。

7 中澤弘光(1874~1964)  「清水寺」



佐藤裕幸(東京都品川区) 

中澤弘光(1874~1964)  「清水寺」  油彩  キャンバス  F10  1932年制作

中澤弘光は、京都を題材に多くの風景画を描いている。
清水寺は京都の観光名所になっているが、この絵が描かれた当時も多くの人々が訪れて、清水の舞台を踏んでいたことであろう。

8 荒井龍男(1904~1955)  「静物」

 

野原 宏(埼玉県久喜市)

荒井龍男(1904~1955)  「静物」  油彩   板   33×23.5㎝   1930年制作

作者26歳の作品です。荒井龍男の画業は1932年の二科展の初入選から1995年まで51歳で没するまでの23年間しか明らかになっていません。1924年に太平洋画会研究所で絵画を学び、その後朝鮮で逓信局に勤務しながら二科展に出品していました。当時の作品は残念ながらほとんど不明です。
そういう意味からも1930年(昭和5年)のこの絵は貴重なものです。
あまり時代を感じさせないのは「静物」のせいもありますが、構図や色にあると思います。
大器晩成、時代を一気に駆け抜けて、ブラジルに拠点を置くことまで考えた気宇壮大な画家の心意気を感じさせる1枚です。

9 宮脇 晴(1902~1985) 「母が結核とわかって悲しかった日」



中山真一(名古屋市)

宮脇 晴(1902~1985) 「母が結核とわかって悲しかった日」  油彩  ボード  
22.5×31.3cm  1931年制作
 
愛知の大正画壇を代表する一人である宮脇晴は、名古屋近郊で村長を務めたこともある父親のもと1902年(明治35)に第八子(四男)末っ子として生まれたとき、すでに長兄ら四人のきょうだいを失っていた。1915年(大正4)、13歳の時点で父やきょうだい二人も失っており、結婚していた姉ひとりを除けば、母と二人だけの境遇になっている。
同年、宮脇は結核により愛知県(現)知多市へ母と転地療養。そこで大沢鉦一郎に出会い、画家を志すことに。
1920年(大正9)には、名古屋市立工芸学校図案科を首席で卒業し、家計を背負うべく母校に勤める。その年、18歳で細密描写の自画像が帝展に入選するも、次の帝展入選は本作品を描いた翌32年(昭和7)。実に12年ぶりのことであった。
その間、絵画制作はもちろん、能面の制作や詩作にもおおいに励んだ。また、1927年(昭2)鎌倉で岸田劉生に会う。劉生の支持で同年、大調和美術展で能面が入選するものの、春陽会や国画会には落選つづきになった。
時代が昭和になったころ、宮脇は細密描写をはなれ、おおらかな筆致や穏やかな色彩による新たな作風を模索しはじめる。結婚して一女をもうけ、ようやく家庭的な落ち着きを得るに至ったのもつかの間、母の結核はどれほどの衝撃であったか。画面の裏に書かれた悲痛な言葉(作品タイトル)。ひろがる景色を前に、作風の模索など意識の外であったろう。

10 島崎柳塢(1865~1937) 「都おどり」



宇都宮義文(千葉県流山市)
10 島崎柳塢(1865~1937) 「都おどり」  
彩色  紙  104.0×28.4cm  1911年制作

                  
(女性像:其のⅠ 純やまとなでしこの体型・顔立ち)

(1 当作品について今後の研究方針・決意!)
 近年京都に行く機会に恵まれるが「都おどり」を見たことも無いし、「オヒトツ ドードス」等といわれた事も皆 無なので作品の髪型・髪カザリ・衣装など良く解らない。出品者として「説明責任」を痛感するので今後多いに研 究・解明に努めねばならぬ。然し、「イチゲンサンオコトワリ」の世界らしく手がかりを得るための実地探訪・フ ィールドワークに勇躍赴かんと決意!だが財布と相談せねばならぬこと等々前途多難である。
(2 女性像として)
 当会仲間の鈴木忠男氏が出展していた気鋭の女性日本画家の展覧会を男性の知人と見に行ったが作品の情念、皮膚 感覚(「内臓感覚」とのこと)に驚いた。
 比較して当作品は矢張り男性側からの視点、感覚で女性を画いたものであるということを認めざるを得ない。もっ とも男性、女性双方不可知の領域であった方が良いと私は思っているのだがどんなものだろう。