21 青山美野子(1952~ ) 「飛田」 



平園賢一(神奈川県平塚市)

21 青山美野子(1952~ ) 「飛田」  油彩  キャンバス  12号  1979年制作
                          
平成21年10月に入手した青山美野子である。裏には飛田 1979 MiyakoUnoとあった。画廊Xさんに手紙を出したところ、その返事には・・・「おめでとうございます。青山美野子さんの作品を洲之内徹が褒めた奇跡のマチエールを生み出し始めたころの作品だと思います。一時期、東京を離れ関西に住んでいた頃の作品だと思います。Uのサインのあるものは非常に希です。 洲之内徹がUさんのデッサンを関西に求めに行った時、青山美野子さんの絵を発見したと伝えられています。その後、洲之内徹の現代画廊で青山美野子展が行われました」
又別の方の話では「青山美野子さんのマチエールの特徴は① 油絵としては珍しく、とても薄塗りです。② 下部の色まで透き通るように見える透明のマチエールは工夫に工夫を重ね出来上がったもので3~5層まで重ね塗り、そのマチエールは強靭で100年持つと伝えられています」
つまり、この一時期に放たれたこのマチエールこそが青山美野子が生きる伝説とされる所以なのだ。ちなみに飛田とは飛田遊郭のことで、大阪市にかつて存在した遊郭、赤線である。通称は飛田新地。

22 藤井令太郎(1913~1980)  「風景」



金井徳重(長野県中野市)

22 藤井令太郎(1913~1980)  「風景」  油彩  キャンバス  F8  1963年頃制作

 椅子の藤井が「アッカドの椅子」で画壇デビューしたのは1957年である。5年後の1961~1963年渡欧。
藤井はイタリア、フランス、イギリス、オランダ、スイス、西ドイツの7か国を巡った。
 その中でスペインの風土に魅せられ、小品であるが佳作の風景画を多く残している。「風景」はその中の一点である。また、その10年後ピエロ(道化師)シリーズを何点か描いている。椅子から群像へ、後年はモチーフを人物へとシフトした。そのきっかけが一連の「道化師」の作品である。
椅子を描いた巨匠はゴッホや超現実主義のダリ、マッソン、マグリット等の作家が擬人化を実験している。椅子、ピエロ、群像への流をみると、藤井が椅子をモチーフとして描き続けたのは、人間的な要素を多分に持っていたに他ならない。

23 藤井令太郎(1913~1980)  「道化師」



金井徳重(長野県中野市)

23 藤井令太郎(1913~1980)  「道化師」  油彩  キャンバス  F8  1978年頃制作

24 大城皓也(1911~1980) 「戦後の荒廃」



安和朝忠(沖縄県浦添市)

24 大城皓也(1911~1980) 「戦後の荒廃」  油彩  板  F4  制作年不詳

 この絵は、戦後沖縄美術教育界の重鎮として活躍した大城皓也氏の初期の作品である。戦争で荒廃した沖縄の各地で目にした風景だが、戦後67年が経過して、今では見る人に遠い過去の記憶を想起させる歴史の証言画となっている。

25 喜友名朝記(1935~ )「久高島のイザイホウ祭り」



安和朝忠(沖縄県浦添市)

25 喜友名朝記(1935~ )「久高島のイザイホウ祭り」 油彩  キャンバス  F6 制作年不詳

 この絵は沖縄本島の東南海上、約5.5kmの小島「久高島」に伝わるイザイホウという神秘的な儀式を
イメージした作品である。島々全体に古代的信仰が色濃く残る沖縄で、イザイホウは最も厳粛で神秘的儀式として知られているが、現在ではその儀式も絶えて久しい。画面では裸足で黒々とした髪を振り乱し、掛け声をかけながら円陣を作って動く女たちの様が伝わってくる。

26 野中光正(1949~ ) 「自画像」



御子柴大三(東京都国分寺市)

26 野中光正(1949~ ) 「自画像」  鉛筆デッサン  紙   36.5×24.0cm  1968年制作

 これは、今では主にアビアント(吾妻橋)や枝香庵(銀座)の両ギャラリーにて版画家として活躍している野中光正の若き日の自画像(鉛筆デッサン)である。
1968年(昭和43年)といえは野中が青春真っ只中の19歳、表現者として画家になるか版画家になるか逡巡していた時期に違いないが、二十歳間近にして何故か下町風景(コンテ)や自画像等(鉛筆)を描くことに熱中した。
 この自画像からは彼の若き日の真直ぐな精神と表現者としてのキリッとした覚悟というものが感じられ清清しい。消え行く昭和の下町の風景を愛惜を持って描いた野中だが、この自画像も昭和の匂いがぷんぷんする。彼の青春譜の一枚である。

27 小貫政之助(1925~1988)  「髪」



御子柴大三(東京都国分寺市)

27 小貫政之助(1925~1988)  「髪」   油彩   キャンバス   F3  1973年制作

 画布左上にあるメス痕、血糊が付着したような眼、鼻、口。女の「髪」はあたかも多くの毛細血管が絡んで、生き物の如くひとつの宇宙を創っている。
小貫はそこから血が滲むのを見たかった。それほど絵画というものに熱中した。
画布から血を滲ますことで生の手ごたえを得たかったに違いない。小貫はこの世の出来事には何も興味は無かった。絶えず生の先にあるものを見たかったのだ。
女の顔、髪が幻の如く現出する。あたかも彼岸から浮かび出て来たかのように。

28 タカハシノブオ(1914~1994) 「黒い裸婦」

 

三浦徹(神戸市)
28 タカハシノブオ(1914~1994) 「黒い裸婦」 油彩  板  44.0×15.0cm  1973年制作

叫ぶ原色、物語る黒、新開地(神戸)のゴッホと称されていた画家である。モチーフは魚、花、街、人物等であるが、抽象作品も創る。画材のキャンバス、厚紙、板、紙、に絵具、パステル、鉛筆を使い作画する。ただし、貧困であったため、キャンバスが買えなかったので、大きな作品は少ない。ただ絵具については高級なものを使用していたようだ。当館を訪れる画家が抽象作品に使用されている絵具のチューブを見て、そう教えてくれた。今回は人物画2点を出品させてもらう。ともに、作家の内面の喜び、叫びが描き出されているものである。
ペンティングナイフ、筆による迫力のある絵具の塗り上げを見ていただければ幸いである。
おそらくカステラが入っていた箱の底板に描いたものであろうが、黒、赤、緑色で力強く裸婦を描き出している。余分なものが全くない。
よく裸婦像に、さまざまなものを描き加えている絵をみるが、私は好まない。この作品にはそれが全くない。非常に潔い、こういった絵を見ていると勇気と元気がもらえる。
ともに私の元気の源となっている作品である。

2 9 タカハシノブオ(1914~1994) 「マドモアゼル」



三浦 徹(神戸市)

29 タカハシノブオ(1914~1994) 「マドモアゼル」 油彩 キャンバス 4号 1973年制作

 黒色をバックに原色を使用しマドモアゼルを描いている。非常に愛らしいし、生き生きしている。左側の下のホクロが魅力的である。
 タカハシの女性像にはホクロが描かれていることが多い。タカハシはほとんど路上で作画してきた。通りかかりの女性(子供も含めて)に声をかけ、描いていたようだ。絵ができると手渡しもしていた。
 ある日、出来上がった作品をさし出したところ、お母さんから「私の娘にはホクロはありません」と叱られたこともあったとのこと。飲酒さえしなければ、温厚な紳士であると聞く。モデルと画家のまことに微笑ましい光景である。この絵は私に喜びと元気を与えてくれている。

30 大塚 武(1927~1979)「ベニス」



小山美枝(東京都西多摩郡)

30 大塚 武(1927~1979)「ベニス」 油彩  キャンバス 50.0 × 60.0cm 1975 年頃制作

今全国巡回展を行っている「犬塚 勉」展を見ていて正直「うらやましい」と感じている。年代は少しずれているが、東京三多摩地区の教師、遺作展の会場や他にも偶然とは思えない一致が多い。作品がまとまって残っていることが「犬塚 勉」にとって幸運だとしか言いようがない。「大塚 武」と比べても仕方がないことだが。
大塚先生の奥様からの最初の手紙に「子どももおりませんし、美術館を建てる資金もありませんので、欲しい方にお譲りしてしまいました」とあって奥様や関係者の方が悪いのではなく、これが現実なのだと思っている。この「ベニス」も昨年の7月わの会放談会で「ヤフーオークション」の話が出なかったら見つからずに埋もれてしまったと思う。画家や作品やコレクションの運命は過酷だ。そう思う。
 大塚先生については奥様が編まれた画集と「安井賞展40年史」しか資料がなく、どのような考えや感情で描いていたかはいろいろな方の話から推測するしかない。それすら回答は少ない。新聞広告を出そうかと本気で考えている。所在だけでも知りたい。作品さえあればもっと知ってもらえるはず・・・故梅野隆先生にも見ていただきたかった。
最後に大塚先生は2つお城を持っていた。自宅「大塚アトリエ」と私の母校瑞穂第一小学校の「図工準備室」ベッドまであったという。6年生の頃準備室の雑巾がけをしていた私の手に釘が刺さった。泣き虫な私は当然泣いた。先生が飛んできて釘を抜き、絆創膏を貼って、最後に口に「卵ボーロ」を入れてくれた。その味を思い出そうとするが、できない。もどかしさが残る。