21 小山田二郎(1914~1991)  「顔」



木村悦雄・正子(千葉市)

21 小山田二郎(1914~1991)  「顔」  水彩  紙  19.0×14.0cm  制作年不詳

小山田二郎 水彩「顔」 斉藤義重 墨「自画像」 八木一夫 インク「顔」
「顔」3者三様の心のうち
今だからこその「前衛」を生きた証たち

 昨年は奥村土牛作「バレリーナ谷桃子像」を出品した。一本の線に絵描き土牛の心の内が乗り映るだけでなく映す対象であるモデルの心のうちをも切り取ったような「静謐」でいてどこか「強さ」を感じさせるデッサンであった。
 今年は、彫刻家・斉藤義重、陶芸家・八木一夫と絵描き・小山田二郎の「顔」小品3点を並べて見た。どれも手のひらに収まる程の小品であるにも関わらず、作品の裏にほぼ同じ時代にジャンルを違えて生き抜いた「ビックマン」たちの心の内と活躍した時代の息吹が聞こえてくるような気がしてならない。
 小山田の作品は作家が一生かけて追い続けた「人間・顔」の縮図、ルオーの描く「キリストの像」にも似る。八木は陶芸という「古」を踏襲するジャンルで「新」を追求した。洒脱な作品は八木の「自画像」なのかもしれない。斉藤は過ごした時代時代で苦悩、変遷を繰り返した。一筆で描かれた小品自画像には、気骨あふれる斉藤の多くを彷彿させる何かを見る者に感じさせる。
 3者3点の共通項は「前衛」にある。3者の生きざまは、ともに「今」を基準にした「現代」から測ると「古典」に位置づけられるほどに彼方にある。よく「生まれた時代が早すぎた」と言われる。3者ともその意味合いを冠される生きざま、作歴だが、「今」その一群の作家たちや生きた時代を「真の前衛」として位置づけ見直す傾向が強くある。
斉藤、八木、小山田、3者三様、まさに我が国における「真の前衛」を演じた作家の証の匂いを感じさせる「小品・顔」3点である。

22 八木一夫(1918~1979)  「顔」 



木村悦雄・正子(千葉市)

22 八木一夫(1918~1979)  「顔」  ペンデッサン  紙  15.0×12.0cm  制作年不詳
 

23 斉藤義重(1904~2001)  「自画像」




木村悦雄・正子(千葉市)

23 斉藤義重(1904~2001)  「自画像」  墨  紙  16.0×12.0cm   制作年不詳

24 此木三紅大(1937~ ) 「横たわる女」 



此木紀子(千葉県匝瑳市)

24 此木三紅大(1937~ ) 「横たわる女」  銅版画   紙   19.5×27.2cm   1976年制作

此木三紅大の版画は余り知られていないかもしれない。1976年から1978年の2年間、怪奇小説家・赤江瀑の「アニマルの謝肉祭」が月刊誌ジュノンに連載された折、挿絵を担当した。そのやり方が画期的で、小説家も画家も誌面で初めてドッキングするのである。だから次の展開を想像して、作家も画家も互いの作品に影響されながら制作していくというやりかたで、当時話題になった。
この挿絵150種類を、此木は総て銅版画でやってのけた。この作品はその中の一点で、すべてが強烈で怪奇的な挿絵の中に入れた一瞬の爽やかな風のような作品である。

25 金子周次(1909~1977)  「外川夕景」  



此木紀子(千葉県匝瑳市)

25 金子周次(1909~1977)  「外川夕景」  木版画   15.0×31.0cm   1970年頃制作

金子周次は郷土銚子をこよなく愛し、その風景を繰り返し繰り返し木版画に残した。生涯独身で貧しくも心豊かに制作三昧の生活を送った。今はもうこのような瓦葺の家々は無くなったであろうか、海が黄金色に染まる夕景の一時を、墨一色で色鮮やかにドラマチックに描いている。外川夕景と題したこの作品は、私の大好きな作品である。

26 関根伸夫(1942~ )  「おちるリンゴ」



小松富士男(埼玉県久喜市)

26 関根伸夫(1942~ )  「おちるリンゴ」  リトグラフ  紙  42.0×38.0cm
1960年代後半~70年代前半

 彼は1970年に、ベニスビエンナーレの日本代表アーティストとなり、ステンレス柱の上に自然石を置く「
空想」でセンセーションを巻き起こした。
 1993年「芸術新潮2月号」で特集された美術評論家30人によるアンケート「戦後美術ベスト10」ではベストアーティストのひとりとして、また「位相---大地」がベスト作品として選出されている。
 以前、埼玉県志木市役所の前をとおりかかったとき、巨大な岩石が宙に浮いているので驚いた。近寄ってみると、ステンレス柱の上に置かれていたのである。周囲の風景がステンレス柱の鏡に写り、岩石だけが浮いているように見える意表をついた現代彫刻のモニュメントであった。
 この「おちるリンゴ」は、環境アートにつながる素描作品とも見える表現で興味深い。
 この作品の購入がきっかけとなり、私の版画収集が始まった。

27 渡邊榮一(1947~ )  「少年王国 1」



中村儀介(千葉県木更津市)

27 渡邊榮一(1947~ )  「少年王国 1」 エングレーヴィング  紙  29.3×25.7cm
制作年不詳

28 李克民(1945~ ) 「鶏防疫」

 


伊藤英一(東京都江戸川区)

28 李克民(1945~ ) 「鶏防疫」 技法、材料 不明  55.0×80.0cm 1983年制作

 昨年9月に中国内陸部の西安へ旅行に行きました。旅行の目的は、文化大革命時代に活躍した画家本人に会うためです。幸いなことに数名の方が御存命でした。
 今回展示します「鶏防疫」は、文化大革命終焉後間もない1983年の作品です。   
 中国伝統画である「山水」とは違い、中国現代アートの息吹を感じさせる斬新な構図・色遣いを感じさせます。

29 杉本健𠮷(1905~2004) 「華楽天女」



中山真一(名古屋市)

29 杉本健𠮷(1905~2004) 「華楽天女」  リトグラフ  紙  29.5×25.5cm 1985年制作

杉本健𠮷先生の「画商亡国論」
 杉本健𠮷先生の「画商亡国論」は、地元愛知の美術界ではわりあい知られていたと思う。杉本先生によれば、絵を投資目的で買う資産家のコレクターたちが画廊の主な顧客であるという。芸術をお金儲けの手段にするとは、あってはならぬこと。しかし、それを助長しているのが画商なのだとか。二、三十年前、私が横で聞いているのに気がつかず、数人のひとたちを前にそう熱弁されていた。
 とはいえ、私ごとき若い画商に気をつかう理由もなく、何度か直接そのお話を伺ったことがある。少なくとも私ども周辺においては、投資目的で作品購入する顧客はひとりもいないと言ってもまちがいではなかった。その意味では自信をもって杉本先生に相たいしていたものの、杉本先生のもつ独得な迫力につい気圧されがちで、なまじの反論などできなかったことをおぼえている。
 ただ、たいへん有難いことにそんな杉本先生から、亡き父のことは「画商亡国論」の稀なる例外にしてくださっていた。理由のひとつは、父が直接に杉本先生から頂戴した作品でもないのに、よき作品を扱うのに際して作者たる杉本先生への感謝の念が深く自然なかたちであったからとのこと。それをしみじみおっしゃられたものの、若い私にはそうした実感を自分のものとするのにそれからずいぶんと時間がかかった。これから画商になると挨拶に来たひとに対して、父のことを話してくださったとも伺っている。
 杉本先生は、画商との帳合をいっさい持たぬどころか、自作をあまり手離そうとせずに生涯を終えられた。そのため愛知県・知多半島の杉本美術館には約四千点もの作品所蔵がある。市場に出てくるのは、杉本先生が後援者らに直接頒布した作品や、デパートの展覧会で発表されたものだ。
 杉本先生の秀作を扱わせて頂くことが、その後もしばしばある。杉本先生、いい絵をたくさん描きのこしてくださって本当に有難うございました。

30 吉江 審(1948~1999)  「見上げて」



野口 勉(埼玉県鶴ヶ島市)

30 吉江 審(1948~1999)  「見上げて」 スクリーン・プリント  紙  35.7×27.0cm  
1997年制作

作品は木々を取り巻く背景の明暗を巧みに生かし人の心を画の中に吸い込んでいくような生気
を感じさせる。私は心の葛藤を感じる時この作品を見ると妙に落ち着く。
地面から木々をじっくり眺め見上げていくとうっすらと明るい日差しが優しく包み込んでくれ
やがて心を穏やかにしてくれる。「見上げてみたら」「見上げてごらん」作者の声が聞えてくる。

作者は長く東京デザイナー学院の専任講師として多くの学生を育てた。
 特に「スクリーンプリントテクニック」(シルクの布に代えてテトロンやナイロンの布を使用し多様な技法)によるグラフィックデザインの表現技術の指導に尽力された。
 後進の育成に精力的に取り組んでいた1999年、惜しくも51歳の若さで逝去してしまう。
 温厚実直な人柄は多くの人に慕われ2008年5月「偲ぶ会(展覧会)」が開催された。