尾崎正教先生の年譜のご紹介
                (評伝 『尾崎正教の陽春』 の作成にあたって)


「わたくし美術館の会」(現「あーと・わの会」)の誕生に大きな影響を与えた方として尾崎正教先生の存在があります。この度、 美術普及家・尾崎正教先生の発掘顕彰を目的に評伝『尾崎正教の陽春』の制作を開始しています。
評伝『尾崎正教の陽春』の制作は2024年4月末にラフ原稿を作成の上、発刊の計画を検討予定です。
今般、先ず、現時点に於ける先生の年譜について、「あーと・わの会」のホームページ上に掲載、ご紹介させていただきます。

2002年「わたくし美術館の会」の名称許諾を先生のご遺族からいただき、後継組織でもある新「わたくし美術館の会」(その後、改名「あーと・わの会」)を名乗り、20年間会が継続、充実した実績を残せたことへの感謝の気持ちを込めて作成しています。
当作業は先生の友人であり、「わたくし美術館」の名付け親でもある、元自由が丘画廊主の実川暢宏さんから2019年に「尾崎正教伝」を書くようにご指示があり、準備されてきました。2024年1月にはご遺族のご了解をいただき、2024年2月に制作が理事長の了承の元、決定。原稿作成作業に入っています。


参考:
1 評伝『尾崎正教の陽春』の作成の背景について 蒐集家、画廊等流通関係者、「わたくし美術館」美術普及活動家は研究対象にはなりにくく、美術史からも置き去りにされ、著作はあっても著名な方のみと少なく、美術普及活動実績は世に余り紹介、現れていません。
作品を購入することで作家の経済的な支えてとなり、作家の評価に対して影響力を持った蒐集家、才能を発見し、世に押し上げて行うプロモーターの役割を持つ画廊、画商、その作家を世に知らしめ、作品を普及させる美術普及家も忘れてはならない。
先生は蒐集家、画商(行商)、美術普及家です。特に、小コレクター運動、わたくし美術館運動を中心に美術普及の各場面で大きな足跡を残されています。この実績を少しでも記録に残し、発掘顕彰させていただきたいと思います。草の根の美術普及活動があって美術界も活気を取り戻すと思います。埋もれた先生の美術普及活動に一隅に光があたれば、関係者も含め、蒐集家、画廊、画商、美術普及家に勇気と活気の影響を与えるのではと望んでいます。
2 2000~01年旧「わたくし美術館の会」の新米理事であった筆者は先生から遺言めいた言葉をいただき、会の運営の参考にさせていただきました。しかしながら、遺言の実行は1 肝心な「わたくし美術館」は20館ほどの会となり、Ⅴ巻(70,80館)の遺言は未達。加えて新「わたくし美術館」(現あーと・わの会)は2024年4月で解散の予定です。尚、後継の「わたくし美術館会議」水口議長は解散後の発足予定。
3 評伝の制作にあたり、美術の専門家でもなく、先生との接触期間は2年ほどと短く、評伝を書くには力不足、
実川暢宏さんら関係者のお力をお借りし、残された実績、資料特に美術普及活動に重点に置き作成中です。
現在2024年4月中旬は評伝の原稿作成の途中の段階でもあります。
4 旧「わたくし美術館の実質後継である「あーと・わの会」の美術普及活動の主な記録 Ⅰ 「あーと・わの会の20年のあゆみ」は2023年4月発刊、HP上にも掲載。Ⅱ わたくし美術館の作り方を「あーと・わの会」のHP上に掲載。Ⅲ 尾崎正教の「わたくし美術館」4巻は2024年3月ご遺族の了承をいただき「あーと・わの会」のHP上に掲載。Ⅳ 『尾崎正教の陽春』を2024年発刊予定。先生の活動年譜をHPに2024年4月掲載
2024年4月15日
文責 あーと・わの会 事務局長 堀良慶


 <尾崎正教の略歴>
尾崎正教 (おざき・せいきょう/1922~2001年)
 愛媛県大洲市生れ。愛媛師範学校卒。中支戦争に4年間従軍(中国重慶)。中、小学校の美術教師をしながら、久保貞次郎に師事、傾倒し創造美育運動、「小コレクター運動」「版画友の会」を推進。1960、70年代に現代版画は大きく花開く、尾崎正教主催の小コレクターの会のオークションを65年南画廊、68年以降自由が丘画廊で開催。70年代には日本の現代版画は国際的にも高い評価を受け、黄金期を迎える。1971年アースディ・イベントと言える「人間の大地のまつり」を尾崎正教・ヨシダ・ヨシエ企画、代々木公園で開催。3000名を集めた。74年現代版画センター事務局長。78年寺島重衛と千葉県に磯部行久美術館を設立。77年ころ本格的に「わたくし美術館運動」を主導。1980年著書「わたくし美術館」第1巻を刊行、その後、次々と4巻迄発刊、347館のわたくし美術館が集録、「わたくし美術館」設立ブームを作った。現代美術の普及、そして絵を中心においた町起し・アート・フェスティバルの原型・草分け。後、文化勲章リーグ等のムーブメントを起こしながら、第5巻のわたくし美術館の発刊未達のまま、2001年旅先で突然没、79歳。創造美育運動、小コレクター運動、オークションの先達、名オークショニア、美術普及活動家、「わたくし美術館の会」主宰、生涯現代美術、版画を全国に行商と称し、現代美術の普及、販売、時にオークションを開催した。50年近く美術教育、美術普及に身を挺してきた美術普及の雄。現代版画の販売数は膨大。

尾崎正教先生の年譜
                                                     敬称略、順不同
01 尾崎正教先生(以降先生表示)は1922年愛媛県大洲市生れ、愛媛師範学校卒、中井藤樹ゆかりの志徳堂で『孝経』を中心とした儒教を学び、愛媛師範学校時代には安岡正篤の『王陽明研究』に影響を受けた。(先生は実学に重きをおき、“民の為に”を心に秘め行動していったように思える)中支戦争に4年間従軍(中国重慶)。*1
02 戦後、愛媛県大洲市で、中学校教師。1951年雑誌「みづゑ」が久保貞次郎の肝いりで「児童美術」の特集を組み、『美術手帳』には真岡の久保邸で児童画研究会の案内が掲載されていた。先生は手紙を出し、51年6月の第8回児童美術研究会に初参加。53年上京し、55年東京の大田区で小学校の美術教師として80年、58歳まで務めた。著書、レポートとして79年教育実践の中で生まれた学校制度に対する理想を提言に纏め、『わたくし学校』を出版、持論を展開。82年 退職 記念講演「一枚の絵からの教育」を発表。美術教育普及活動に捧げた。*2
03 久保提唱の創造美育活動は52年「創造美育協会」を設立。先生は久保貞次郎に師事、傾倒、53年8月の軽井沢での第2回創美全国セミナールからに参画、事務局として活動を支えた中心人物となる。55年第4回長野県湯田中全国セミナールではオークションを始めていた。先生はこの実行委員をつとめた。*3
04 先生は1958年東京都大田区の六郷小学校教諭であった。森口朗『日教組』(新潮新書)を読んでいたら、教員に対する勤務評定導入に反対する日教組の運動に触れた箇所で、過激な手段で反対を表明した教員(先生)がいて、それを朝日新聞が理解ある視点で報道したと伝わっている。
05 先生は久保貞次郎提唱の1956年発足の小コレクター運動(創造美育活動と並行した運動)を通じて現代美
術の美術普及、絵画の流通の参画、徐々にその魅力に嵌っていった。小コレクターの会はデモクラートの作家
、代表の瑛九らが中心推進、58年「全国小コレクターの会」が芦原温泉で発足。小コレクターの会は58年以降
久保ギャラリー、以降、芦原温泉、軽井沢、名古屋、浦和で開催。60年小コレクター運動の牽引車瑛九が60年
亡くなり、尾崎先生は小コレクターの会を主宰してゆく。運動の対象は学校の先生方であった。先生は、本格的
に運動に身を投じ、全国に展開、1965年南画廊で小コレクター会のオークション主宰(一般市民を交えた実質
日本初の絵画オークション)、1968年以降自由が丘画廊(実川暢宏画廊主)で小コレクターの会のオークション
開催、一般市民に拡げていった。現代美術は「小コレクター運動」の活動もあって、60年代から70年代大きく花
開いた。*4、5、7
06 1969年 瑛九の会を結成。初代事務局長に就任 機関誌を発行
07 1971年「人間の大地の祭り」を尾崎正教とヨシダ・ヨシエが主催開催。3000名を集めた。(その後に続くイベント屋としてのコツを掴んだ)尾崎正教は親しい渡米中の磯辺行久からアースディ・イベントの動きを聞き、アースディ・イベントといえる「人間の大地の祭り」を開催。(この時北川フラムも参加)。
08 先生は現代美術のコレクターであった。 瑛九、磯部行久、靉嘔、池田満寿夫、オノサト・トシノブ、李禹煥、福井延光、菅井汲、関根伸夫、山口長男、草間彌生、野田哲也等の作品を収集、コレクションの質は高く、個人美術館(特定作家美術館・個人美術館)近いレベルがあった。わたくし美術館のⅠ巻に紹介されている10名の現代美術作家の仮想美術館は先生の夢を如実にあらわし、思いは飛躍し、仏ポンピドーセンターに匹敵する美術館村、日本を代表する現代美術館の設立が夢だった。(「わたくし美術館」Ⅰ巻に収録)この質の高いコレクションが尾崎正教のその後の運動の後押しをした。(12項参照)このコレクションを美術普及の各場面、時折々に貸出、譲り有効に利用していった。(自身の美術館を作ることを諦めた)摺師の岡部徳三とも親しく、現代版画の企画展も行い、久保貞次郎から版元的機能の一部を引き継ぎ、小コレクター運動、わたくし美術館運動、現代版画センターの活動、実績を通じ、作品が供給されていったと思われる。
09 1974年「現代版画センター」が設立、毎日新聞社の文化事業として版画普及センター設立構想があり、新聞社から独立し、綿貫不二夫が代表となり、版元となってエディションクラブ、会員のネットワークの全国組織を作り上げた。尾崎正教は、事務局長として現代版画の販売、流通を担当、夏休みを利用し、創美、小コレクター運動の組織、人脈を利用し、現代版画の販売につとめた。現代版画センターは版元として、小コレクターの組織に加え画廊を中心とした全国販売組織を構築展開していった。(北川フラムも参画)
先生は「現代版画センター」の立ち上げに参画、77年ごろから役割を終え、第1線を外れ、わたくし美術館運動に軸足を移していった。その後、現代版画センターは資金繰りに限界が生じ、85年倒産。
10 先生の名は「小コレクター運動」、「現代版画センター」での活躍で美術界に知られる様になっていった。先生
は60~70年代の現代美術のブームを作ったオルガナイザー(実川暢宏氏 談)であった。現代美術の難し
い芸術論をやさしい言葉で大衆へと普及させるという強い信念を持って広めた。全国の美術教師を中心とし
た市民はこれを受け入れ大きな共感を得ていった。*6
11 磯辺行久美術館設立 先生は1976年寺島重衛と千葉県に磯辺行久美術館設立。「わたくし美術館」の命名者でもある実川暢宏さんは“これは崎正教の「わたくし美術館運動」の原点である”と、明確に指摘。磯辺行久は1964年に渡米。4000点の作品を創美で知った尾崎正教に預かってもらった。預かり場所は変え、行きついたのが千葉県長南町です。手嶋重衛の敷地に磯辺行久美術館設立した。その後尾崎先生は1990年頃公立美術館化を検討したが実現に至らず。作品は磯辺行久記念 越後妻有清津倉庫美術館に収蔵。*7
12 戦後間もないころ久保貞次郎は“人口10万人の街に一つの美術館があってよい”と提唱し、尾崎正教がそれを“一つの街に一つの美術館を”と提唱、「わたくし美術館運動」を推進していった。1976年運動を起動、77年頃から、わたくし美術館運動が熱心に行われブームとなっていった。レポートの「美術館訪問」と「わたくし美術館の会の会報」(1~70号)によって紹介され。又「わたくし美術館の会」主宰 著書『わたくし美術館』Ⅰ~Ⅳ巻 1979年~1992年まで、347館の美術館が紹介収録されている。「わたくし美術館運動」は没年の2001年迄24年間継続された。*8
13 先生は1977年頃わたくし美術館運動に重点化して行った。1980年頃小学校教師退職、運動を工夫しながら
「わたくしの町美術館展」、「わたくしの町美術館運動」へ名を変え、推進。80~90年代公立美術館設立ブー
ムがあり、「わたくし美術館運動」は大きく影響を受けた。第1回「わたくしの町美術館展」は1982年6月六本木
ストライプハウス美術館で開催。先生は退職金をなげうって「高等学校美術館」というシリーズ、版画第1集を
刊行(大沢昌介、菅木志雄、関根伸夫。原健、松本旻の作品)。高等学校美術館運動、美術館村は「わたくし
美術館運動」の展開、拡張型です。継続されなかったが如実に先生の考えが投影された運動であった。
14 「わたくし美術館運動」を牽引するのは、自身の美術普及活動とともに「わたくし美術館の会」の活動がその中核となる重要な会であった。会費は3000円/円ほどで会報が尾崎正教の手で四季報として作成され、会員に配布されて行った。会員は全国に散らばり年度によって異なるが100名前後~160名ほどの会であった。
15 わたくし美術館運動の拡大版・アート・フェスティバル、アートイベント、芸術祭 1983年松山の「大街道わたく
しの町美術展」に参加。その後、尾崎正教と高見乾司の出会いは1988年、そのころ、空想の森美術館は開
館2年目、空想の森美術館のスタッフが中心となって提案した「アート・フェスティバルゆふいん」を終えてい
た。二人が出会い、尾崎正教と高見乾司は「わたくし美術館運動」のみにとどまらず、周りの市町村を巻き込
み、絵を中心としたお祭りに拡大していった。その例が湯布院シンポジュームであり、伊豆高原フェスティバ
ル(25年間継続)であり、坂のまちアートin やつお(1996年~28年間)です。
16 「憲法の杜美術館」運動、「わたくし学校」運動の起動も幾度かトライ、夢見たが大きく展開や継続は賛同者もいたが継続は難しかったようです。尾崎正教はいずれにしても熱烈な愛国心を持つナショナリスト、そして民主主義者であった。
17 1995年ころ文化勲章リーグ (草間彌生、野田哲也の文化勲章受章運動)も提唱した。先生には、その作家の本質を見る尋常ではない、世間の評判に惑わされない洞察力、目利力を持ち、先見の明があった
18 戦後、美術を取り巻く幾つもの構造的変化に加え、バブル期崩壊を経て長期の日本経済の停滞の影響を受け、美術分野も不況に陥り、現代版画ブームも需要減、供給過多があり下火になり、「小コレクター運動」そして、「わたくし美術館運動」は影響を受けていった。その後も、カルトンを抱かえ全国各地に現代美術の版画を行商、小さなオークションも開催。先生の運動推進効果もあり、「わたくし美術館」もブーム時ほど多くはないが着実に新しくわたくし美術館は各地にオープンしていた。
19 「わたくしの町美術館運動」、「美術館村構想、運動」、「文化勲章リーグ」等のムーブメントを起こし、2001年美術普及の旅先で突然没、79歳。正に尾崎正教は現代美術、現代版画の美術普及、わたくし美術館運動に殉じた。
20 美術のヒエラルキー、エスタブリッシュメントいわゆる権力に関係なく、逆に権威にモノ申す又“美術界に騒ぎは起こしたい”の勇気は美術普及活動家として最後まで衰えることはなかった。結果的に創造美育運動、小コレクター運動、わたくし美術館運動の革新的、新機軸で美術史に残るべき素晴らしい成果を残していった。又アート・フェスティバル、アートライン等の町起しの先兵として役割を果たした。オークション開催も戦後初、先兵だった。纏めて言えば美術普及のプラットフォーマ―的存在であった。
21 『わたくし美術館Ⅰ~Ⅳ巻』が遺稿として遺されているものの、先生の世間的出世や名誉は実現されず、晩年、アトリエに残された現代版画を元に、優しく、判りやすい、魅力ある言葉で語らい、売り、譲っていった。小コレクターの仲間は教員も多く、立場が判るので暖かい眼で、それそれぞれに市場価格を乱さぬ程度に価格を合わせていたことが伝わっている。先生は現代版画をカルトンに入れ、全国各地を回り、わたくし美術館運動を推進しながら行商、作品をコレクター、わたくし美術館にも譲っていった。一点の絵を一人の市民に買っていただくことこそ美術普及のもっとも大切なことであることをあらためて教えていただています。
(その行為、姿は同郷の聖人一遍上人の様であった。 美術普及草の根運動家の雄であり現代美術を判りやすく説き、伝えていった伝道師であった。そして儒教の実学、“民のため”にを実践したように思います)
以上


<参考>
*1 安岡正篤 (やすお・かまさひろ/1898~1983年)幼少から漢籍に親しむ。東京大学法学部在学中に大正デモクラシーに抗して日本主義を唱え,早くから政・官・軍関係者にその名を知られる。 1927年私塾・金鶏学院を設立して東洋思想の普及に努め,31年財界首脳をスポンサーに日本農士学校を創設する。第2次世界大戦中
は小磯内閣の大東亜省顧問をつとめたが,終戦の詔勅の起草者の1人でもあった。 49年全国師友協会を設
立, 指導者の教化に力を注ぐ。多くの政・財界人,文化人が師と仰ぎ,安岡の訓話を受けることが指導者の条
件とま でいわれた。吉田茂,佐藤栄作,池田勇人ら官僚出身の歴代首相の求めに応じて指南役として助言し
たが,みずからは生涯政治の表舞台に立つことはなかった。陽明学,東洋思想,人生論に関する多数の著書
がある。東京で没、85歳。陽明学者,思想家
*2 久保貞次郎 (くぼ・ていじろう/1909~1996年) 栃木県生れ。1928年日本エスペラント学会入会。33年
東京帝国大学文学部教育学科卒、同大大学院に進学。35年宮崎で瑛九(杉田秀夫)に出会い、現代美術へ興味、瑛九を通じて作家たちと交遊。38年真岡町小学校に久保講堂で児童画展を開催、審査員。38~39年渡米欧。51年瑛九を中心にデモクラート美術協会が結成、評論家として支援。52年創造美育協会設立に参加した。評論家、収集家として主に現代版画の振興に尽くし、瑛九のほか、北川民次、利根山光人、泉茂、吉原英雄、池
田満寿夫、小田㐮、深沢史朗、木村光佑らと交遊。1955年ころ久保は、「小コレクター運動」を提唱、推進するよ
うになった。これは、本物の美術品、特に才能がありながらまだ無名の作家の作品を購入することを呼びかける
運動であり、版画を中心に水彩画、素描、油彩画などを購入し、3点以上所有することを広く呼びかける運動で
あった。66年ヴェネツィア・ビエンナーレの日本代表。77~85年跡見学園短期大学学長。86~93年町田市立
国際版画美術館館長。著書に「ブリウゲル」、「シャガール」、「児童画の見方」、「児童美術」、「子どもの創造力」、
「児童画の世界」、「ヘンリー・ミラー絵の世界」、「久保貞次郎 美術の世界」全12巻(叢文社)などがある。1992
年町田市立国際版画美術館で「久保貞次郎と芸術家展」が開かれ、業績が回顧。東京で没、87歳。(引用 東文
研)評論家、コレクター、美教、美術館館長、創美、美普
*3 創造美育運動の補足  現代日本美術教育のルーツ ★★創美運動の二大巨星久保貞次郎と北川民次を語る 講演会 宇都宮大学2016年1月9日
 70年前までの図画教育は子どもの思いの表現ではなく、教科書の手本をそっくりに写し描かせる「臨画」で眼と手の巧緻性を重視していました。その頃、1938(昭和13)年4月に栃木県の真岡では、地元の久保貞次郎(1909-96)らにより第1回児童画公開審査会が開かれて新しい図画教育の探究 が始まりました。2ヶ月後に久保は、メキシコ・タスコから2年前に帰国した北川民治(1894-1989)と出会い、戦争で中止になる1942年第7回ま で開催し続けました。敗戦後の1952年5月に久保や北川ら21名は「児童の個性の伸長こそ新しい教育の目標だ」とする《創造美育協会宣言》を高らかに謳い発足。戦後民主主義を体現した精神や授業実践の創美運動への共感が全国に広がってマスコミの注目を集め、3年後の創造美育研究会には、1670名もの参加者で溢れました。58年より尾崎正教が参加。その命脈は現代日本の美術教育に受け継がれています。1947(昭和22)年の学習指導要領では小学校低学年の図画工作は週3時間〔年105単位時間〕、中学3年まで週2時間〔同70〕授業でした。現在は小学1~6学年は年68・70・60・60・50・50時間、中学は45・35・35です。最近、人文系や教員養成学部・学科の縮小・廃止が報じられ、子どもたちに豊かな感性を培うことが困難になることを美術教育関係者だけでなく、少なくない市民が危惧しています。
*4 小コレクター運動 (しょうコレクターうんどう)は、1950年代、美術評論家である久保貞次郎が提唱した美術教育の運動「創造美育運動」から起こった。この運動は、作品を3点以上所有する人を、「小コレクター」と呼び、本物の美術品を持つことでアートに対する理解・愛着が増すともに、美術品を買うことが無名のアーティストの不遇な時代を支援・応援することにつながる、という考えから成る。特に美術教師に作品を買わせていった。58年芦原温泉で「全国小コレクターの会」が発足。58年久保ギャラリーで、各地で開催。尾崎正教主催で56年~南画廊、59年~自由が丘ギャラリーでオークションも開催。作品の内容は、北川民治、靉嘔、瑛九、池田満寿夫、オノサト・トシノブ、吉原英雄、磯部行久、木村利三郎らの、版画、水彩、デッサン、油絵などである。特に、福井県は小コレクター運動が一番盛んだった。小コレクター運動の実践者は先生が担っていた。79年「アートフル勝山の会」が発足し、運動を継承している。また、2015年には福井市の福井県立美術館にて作品展「福井の小コレクター運動とアートフル勝山の歩み」が開催された。「福井の小コレクター運動」は57年間、現在も継続している。
*5 デモクラート作家主なメンバー:、瑛九、靉嘔、池田満寿夫、泉茂、磯辺行久、内間俊子(青原俊子)、加藤正、河原温、利根山光人、細江英公、吉原英雄等が1951年瑛九中心に大阪で立ち上げた反公募の団体です。
デモクラート作家が評価 ; 瑛九らの様な画壇のアウトサイダーだった画家たちが評価を得たのは、久保貞次郎という指導者の元、尾崎正教等のコレクターたちの支援活動があったからであった。「小コレクター運動」も「わたくし美術館運動」の源の大局の着眼提唱は久保が、小局着手実行は尾崎等が担った。異能や変人(と見られる)の知が共振すれば、革新が芽生える。変わった人こそ、社会に活力を生む源泉です。久保貞次郎と尾崎正教の共振があったのです。
*6 1970年半ばから現代美術も市場に浸透、拡大、黄金期のピークを迎え作家も多くなり、版画も商品として流通するマーケットの時代に入っていった。供給が多くなり需要が追い付かない転換期を迎え、商品となれば優勝劣敗商売、競合に突入してゆく商業主義になるのは当然ななりゆきです。画家は自由により良き画商と組み、画商は自由により良き画家を見つける。この様な変化があり画家・版画家とプロデューサー、画商、コレクターの豊かな創造的な親密な関係は薄れていった。作家多くなり、供給過剰、コレクター過少により需要不足に影響を受け、現代版画ブームの熱も下火となっていったのです。
 戦後の大きな第一次美術ブーム(1970~73年)に乗り、小コレクター運動は現代美術、特に現代版画普及に多大な実績を残し、1987、88、89年ごろにも大きな第二次美術ブームがあり、美術ブームとその後の美術不況、特に1990~93年のバブル崩壊から続く、日本経済の不況、停滞の影響を受け、一方美術界の構造の変化(特に美術界のヒエラルキーによる作家を世に出してゆくシステム)、需給バランスが崩れ、美術不況によって活動は影響を受けていった。現代版画のブームも下火に、版画家に試練の時期が到来した。
*7 実川暢宏 (じつかわ・のぶひろ/1937年~ ) 静岡県生れ。十代から「美術手帳」「芸術新潮」に親しむ。上京後、明治書房のエスパース画廊を通じて久保貞次郎に出会い、その後の画廊人生に多大の影響を受ける。1964年、南画廊で山口長男の作品を買ったことを契機に、画廊主の志水楠男と親しくなる。1969年、自由が丘画廊を始める。南画廊を通じて、瀧口修造と出会い、影響を受ける。68年小コレクターの会(小オークション)を南画廊から譲り受け、開催。尾崎正教の「わたくし美術館」の名つけ親になった。1981年銀座自由が丘画廊を開廊、多くの前衛美術家・特に海外の前衛作家を紹介した。又1987年自由が丘画廊を閉鎖後、新潟では二つの美術館長を務めた。著書は3冊。2010年『現代美術 夢 むだ話』(冬青社)。2017年『現代美術 夢のつづき』(冬青社)。2023年著書『自由が丘画廊ものがたり』(平凡社)。前衛美術家を紹介、元自由が丘画廊主
*8 「わたくし美術館運動」 戦後間もないころ故久保貞次郎は人口10万人に1つ美術館をつくろうと唱え。その意思を継いだ尾崎正教は、1976年磯辺行久美術館設立した。これこそ尾崎正教の「わたくし美術館運動」の原点です。1976年~80年試行錯誤しながら“一つの街に一つの美術館を”という 「わたくし美術館」運動を提唱して展開しました。 戦後の復興、経済発展に伴い全国にわたくし美術館が作られていきました。時期を同じくして1970年代前半から美術館ブームの到来があり、上手くその波に乗って1980年にはわたくし美術館運動に邁進していった。尾崎正教は347館のわたくし美術館を『わたくし美術館』1~4巻に収録した。
*参考 9 先生は 1 現代美術の普及、作品貸出、行商 2 わたくし美術館運動 3 わたくし美術館設立運営
指導の機能を持っていたのです。磯辺行久美術館設立、現代版画センター、わたくし美術館運動の始動、
併せ 5 中央の情報を地方へ伝達機能を持ち 着実に先生の名は美術界に徐々に浸透していった。
*参考 10 伝記(でんき)とは、広義には書き記された記録の総称だが、狭義には個人の事績の記録を指す。現代においては、狭義に使われることが多い。英語名は biography である。評伝とは その人についての批評をまじえながら書かれた伝記。伝記は筆者には荷が重く、『尾崎正教の陽春』(評伝)とした。

11 出典、資料
尾崎正教著 『わたくし美術館Ⅰ~Ⅳ巻、「わたくし美術館」の会報。2010年『現代美術 夢 むだ話』(冬青社)。2017年『現代美術 夢のつづき』(冬青社)。2023年著書『自由が丘画廊ものがたり』(平凡社)、静岡県立美術館の紀要第25号「画廊とコレクター」。
参考 : 「ときのわすれもの」のネット情報。深澤孝史さんのレポート。高見乾司さんのネット情報。ご遺族尾崎正明さん取材内容等。 以上