粋狂老人のアートコラム
      刀装具に見る武士の美学を陰で支えた名工たち・・・・大森英秀他
           鐔制作に注力した鐔工の数少ない縁頭に出合う・・・

 
 私の子供時分の記憶を辿ると、時折、実家の正月を迎える父の準備作業を思い出すことがある。年末が近づくと、普段は使っていない板の間の奥座敷と附属する床の間周辺を念入りに掃除し、室内には真新しい畳を敷き、床の間に掛軸を掛け、鏡餅や刀剣を飾るのが父の役目であった。軸は「山岡鉄舟(1836~1888年)」の富士に登る蝸牛の図で、「精神一到何事か成らざらん・・・蝸牛富士に登らば上るべし」と墨書きがあった。勿論、当時は自分で読むこともままならずに父に読んでもらった記憶がある。父は刀箪笥から取り出した刀を特注の刀掛けに飾ることに満足しているようであった。今でも鮮明に覚えていることは、この時だけは滅多に触れさせて貰えない刀を特別に持たせてくれた。初めて刀を持った手の感触やそのズシリとした重さを今でも忘れることはない。特に大刀の重さは私の想像以上であった。私は社会人となってから時代劇映画を見る機会があったが、よく劇中に侍同士が斬り合う場面で、刀を構えた両者が向き合ったまま微動だにしないシーンを目にした。私はそのたびに、これが竹光でなく真剣ならば、役者はどのような動きするのだろうなどと思いながら画面を見ていた記憶がある。刀(とくに大刀)の重さを知った者にとって、刀の切っ先を動かすことなく構えているのは、まさに至難のわざと感じたからである。因みに、私は大小の刀のうち特に小刀(脇差)に興味があった。理由は鐔、小柄、縁頭、目貫などいずれも凝った刀拵えで、子供心に興味をそそられた記憶がある。これらの呼称は、すべて父からの受け売りである。一方、鞘から抜いた刀身は刃毀れひとつ無く綺麗であった反面、私の中では恐怖心が勝っていたように思う。それでも怖いもの見たさなのか、社会人となってからも機会をとらえて、徳川美術館、岡山美術館(現、林原美術館)や根津美術館などの刀剣展を見てきた。私はこれまで国宝や重要文化財を含め相当数の刀を見てきたが、未だ刃文の素晴らしさなど理解の域に達していない。その大きな理由は、刀を見ると刀身より刀拵えに目が行ってしまう習性が、何時しか身に付いてしまったことかも知れない。

 ところで、私は刀剣類を身近に置きたくない思いから美術館等で鑑賞するものと自分に言い聞かせ、購入を控えてきた。それでも小道具類は何点か所蔵している。その内の1点は「大森英秀」の縁頭である。英秀について、「刀装小道具講座3江戸金工編<上>」に大森派として取り上げており、その中に二代英秀の項から作風の一部を紹介することにしたい。該当箇所を引用すると、「波濤の彫法は打寄せる波浪の描写を地金の金属に鏨で表現して、絵画も及ばない写実性を示して迫真の刀法を見せており、大森波の名で当時の人々の喝采を受け、英秀の声価を髙からしめている。赤銅や四分一の地金を使った縁頭や鐔、小柄等に全面的な高波の打寄せる有様を肉彫にして、しかもその波頭を鏨で彫透しているために、すこぶる写生風に造形されている。なかには波頭を透さずに彫りくずして水玉を金象嵌にしたものもある。」と著者は書いており、高い評価を得ていたことが理解できる。まさに手元の縁頭も豪快な波濤の中に鯛を彫り込み、水玉を金銀象嵌した逸品である。波の立体的な彫りは、並み居る有名鐔工といえども、英秀の右に出る者は無いと思っている。


      縁頭     波濤図     四分一地高彫色絵   

 余談であるが、私は一時、鐔や縁頭等に注目し、蒐集しようと資料を集め勉強した時期がある。しかし、知識が深まるにつれて、目が肥えて優品が欲しくなり、優品は高価で入手が難しいことから途中で頓挫した苦い思い出がある。それでも英秀の作品は、当時出入りしていた骨董商のすすめもあり購入した経緯がある。私は今になり、40年経って振り返れば、英秀作品の素晴らしさに気付き、骨董商のアドバイスを素直に受け入れてよかったと思えるようになった。

 英秀について詳しいことは分からないが、資料によると、「1730年(享保15年)江戸に生まれる。先代大森英昌の甥にあたり、通称を喜惣次という。はじめ英昌の内弟子として修業し、後にその養嗣子となって大森家の二代目を継承した。同家の頭領として盛名すこぶる高く、多くの弟子を養成し、その門下生は遠く東北、九州にまで及んでいる。大森派には堅実さがあり、大森式と呼称されるいくつかの彫法を開発し、新機軸を試みて成功している。浅草に住み、御門脇町や茅町あるいは柳橋に転居しているが、晩年の天明年間は柳橋に住んでいた。1798年(寛政10年)4月に69歳で歿した。」とあり、これらが判明している内容である。
          
 二点目は「藻柄子入道宗典」の作品である。この鐔工は鐔や縁頭などに隙間なく目いっぱいの人物などを彫り込むので、一度作品に出合うとその特長が印象に残るようだ。手元の離れ縁(購入時から頭は無く縁のみ)は、金象嵌の楯を右手で持ち、左手に弓を持つ三人の武者を左側に配置し、間に銀象嵌の波、右側には楯や槍を持った二人の武者が象嵌されている。裏側には松樹が彫られ、空は嵐の状況か稲妻(?)を金象嵌で表現したものと思われる。僅かな隙間も魚子地(ななこぢ)を施すなど手を抜くことをしない作者の思いが伝わってくる。このような造りの作品は、大方、作者の見当がつくが、手元の縁には「藻柄子入道宗典製」の彫り銘が確認できる。因みに、作者はどのような場面を表したのか「鐔小道具画題事典」で調べたが、該当する画題は見つからなかった。私は武者が持つ楯から蒙古襲来の場面を表したのではと推測している。日本国内で戦国時代に楯を使用したという事実は、資料等でも目にしたことがないことが理由である。
       
         縁  合戦図  赤胴魚子地高彫色絵象嵌

 この辺で、宗典の作風について、「刀装小道具講座7諸国篇<下>」に掲載されている該当箇所を一部紹介したい。それによると、「作は鐔が多く、きわめて少数であるが小柄、縁頭、目貫を造っている。鐔は鉄または赤銅を地金として、板鐔に濃密な春秋花鳥図を高彫色絵にするものと、和漢の人物図を肉彫地透にして、松樹などを配した二つの出来が代表的なものである。この一類の作に対して、彦根彫の呼び名があるが、その代表工は宗典である。赤銅地には魚子をまいたものがあり、これらは美濃彫に似て菊花や草花を高彫にして、色絵を多用し象嵌も行っており、概して出来がよい。世上にたくさんある宗典作といわれる武者図の鐔とは趣を別にしている。」とあり、当時から人気があったため、弟子等による贋物も出回ったことが分かる。

 これだけ世上で人気があった宗典の略歴も不明な箇所が多く残念であるが、分かった内容を紹介することにしたい。宗典は「生年不詳。京都八幡町に生れる。本名を喜多川善五郎(または喜多河善五郎)、別号は藻柄子(もがらし、そうへいしとも)を使用した。京鐔工系に属し後藤派の手法も学び、1710年(宝永頃)に彦根中籔に移住して、彦根藩士川北氏の援助を受けて初銘を秀典といい、鐔制作に励んでいる。一方、没した後の1821年(文政4年)には宗典の「屋島弓流図鐔」は金三両に評価されているが、没年は不明である。一説には90代まで生きていたとの話もあるが、それを裏付ける資料は見つかっていないようだ。」とあり、内容としては満足していない。もしかしたら、彦根市内の旧家やお寺などに関係資料が眠っているのではとの強い思いもあり、郷土史家の掘り出しを期待したいものである。

<参考資料>
刀装小道具講座(1~7、別巻)   日本刀にみる 花鳥風月(根津美術館)
鐔入門(柴田光男著) 刀装入門(柴田光男著) 刀剣(小笠原信夫著)
金工鐔(小窪健一、益本千一郎著) 鐔 ドイツから帰って来た鐔(伊波富彦著)
鐔 欧州から帰って来た鐔Ⅱ(伊波富彦著) 名著復刻 鐔大観(刀剣春秋新聞社)
鐔小道具画題事典(沼田鎌次著) 日本刀銘艦(本間薫山 校閲、石井正國編著)
刀剣標準価格(清水澄編)  刀剣番付 新刀編(清水澄編) 鐔(小笠原信夫著)
透し鐔(小窪健一、笹野大行、益本千一郎、芝田光男) 鐔の鑑定と鑑賞(常石英明著)
これからの鐔収集(小窪健一、益本千一郎著)  打刀の古鍔図説(横田謙一郎著)
金工鐔工 銘と価格(若山泡沫、柴田和夫著) 武将とその愛刀(佐藤寒山著)
日本刀 鐔・小道具 価格事典(飯田一雄著) 日本の美術NO。64 刀装具