粋狂老人のアートコラム
         現存作品の少ない画家の作品を掘り出す・・・・野崎華年
         観る者の感情を揺さぶる作品に息を呑む・・・・

 
 十数年前のことであるが、今かすかに記憶にあるのは、以前に日本近代美術発達史 明治篇(浦崎永錫著)を読んでいたとき、あるページで野崎兼清と広瀬孝次の名前に目が止まったことを覚えている。今回あらためて資料を確認すると、それは明治23年開設の第三回内国勧業博覧会に洋風画が60点、彫塑6点が出陳されたことに関する記述であった。内訳を見ると、明治美術会会員が油絵を27人、彫刻を4人出品し、残りは明治美術会会員以外の画家たちであった。私が何故、野崎と広瀬に注目したのかは、明治美術会会員の中で初めて目にする名前であったことのようだ。そこで特に気になった野崎について即調べてみようと思い立ったのが事の発端である。
 調査を開始すると、資料などの出所は不明ながら、幸運にも野崎は愛知県出身であることがわかった。早速、所蔵の「20世紀 愛知の美術展図録」お確認すると、<衣冠人物図(油彩)>と<柴刈(水彩)>の2点の図版を確認し安堵したことが、当時のメモ書きから読み取れる。

         
        杉木立に群れる鹿    33.5×50.0㎝

 その後、数年経過したころ一枚の古い風景画(水彩)に出合った。これが自分で言うのも憚れるが、一目でノックアウトを食らったような衝撃を受けた。一見してパステル画ではと見紛う印象もあったが、実際は観る者の感情を揺さぶる水彩画であった。作品は杉林の中で草を食む鹿の群れを臨場感あふれる表現で描いており、画面からは鑑賞者の心に自然に響いてくる心地よさを感じた。具体的な構図を見ると、杉の木の位置関係を考慮した配置、幹の大小、鹿の群れの配置の良さ、さらには朝もやの描写は、自分がその場に居合わせているような錯覚さえを起こしそうである。絵に近づいてみると、群れのリーダーと思しき一頭は、仲間が草を食んでいる間、周囲を警戒している様子が、作者の技量によって見事に活写されている。他にも二本の杉の大木やS字型の小道、更には一目で遠近感がわかる奥の草地の描写など枚挙に暇がない。私の数少ない所蔵品の中でも上位の逸品である。

作品は勿論,及第点をあげたい出来栄えであるが、次の関心は作者が誰なのかに絞られてくる。早速、サインを確認すると、以前の調査で調べていた野崎華年の可能性が強くなった。念のため、当時の資料で確認すると、<柴刈>と同じサインであることがわかった。やはり労を惜しまず気になった作者をその時に調べることの重要性をあらためて実感した。

 作者がわかると、作品の制作地が気になり始めた。私は当初、関西で浅井忠に師事していたことから奈良で描いたのではと推測した時期がある。その後、「甦る日光・社寺を描いた水彩画展図録」を入手し、図録の中に野崎の作品<東照宮・御水屋>を見付けたことで、奈良説から日光説に揺らぎ始めたことを覚えている。近年、日光周辺では、鹿による樹木や農産物への被害が話題になっていることから、明治頃にはすでに生息していた事実を裏付ける出来事と推測している。少し気掛かりなのは、果たして野崎が実際に日光を訪れ、作品を描いたのかどうかである。一説によると、一部の画家たちは、日光を訪れることなく、都内や横浜で手本を見て写し、外国人土産用に制作していたと言われている。野崎も手本を参考に写したのかどうか、その確証はない。しかしながら、野崎の作品に限って言えることは、迫真の鹿の描写を見るにつけ、現場制作以外考えられないと云うのが私の結論である。

 この辺で野崎の略歴を参考までに紹介しよう。資料によると野崎は、「1862年名古屋生まれ。野崎兼良(尾張藩重臣)の長男で、本名は兼清。河野次郎(河野通勢の父)に洋画を学ぶ。83年上京し、工部美術学校出身の殿木晴吉に洋画を学ぶ。87年、帰郷し菅原小学校で図画教員となる。90年、第三回内国勧業博覧会に出品。95年、第7回明治美術会に<富士山之図>出品。97年、第8回明治美術会に<大和月ヶ瀬>出品。その後、愛知県内の学校で図画教員を務めながら、同年に名古屋で洋画塾明美会を開く。98年、その展覧会を総見寺で開催した際、洋画の他に盆栽も展示したユニークな内容であったらしい。弘前中学校(同年2月~9月)へ転勤したのち京都に移り、1903年、浅井忠に油彩と図案を学んだ。06年、関西美術会第5回競技会で水彩の部で三等賞受賞。名古屋に戻り、10年、新古美術展覧会に<夕>出品。同年、いとう呉服店の開店時には天井画と壁画を制作した。同年にはハレ―彗星接近に因んだ命名で、鈴木不知とともにハレ―洋画会を結成し、顧問に鹿子木孟郎、満谷国四郎、黒田清輝を迎えたが、翌年、名古屋財界からの支援を得て名古屋初の総合美術団体「東海美術協会」へ発展した。野崎はその洋画部門の常務理事となった。この間、画塾の明美会は浪越美術会を経て名古屋美術院へ改称したが、ここは門人だけでなく幅広く後進へ門戸を開き、女性たちも多く受け入れ、指導者として岡田三郎助や藤島武二をはじめ大家たちを招いた。23年、岸田劉生が大震災を逃れて京都に移る途中で名古屋に二週間ほど滞在した際、子の兼俊とともに劉生を歓待したことが劉生日記に記されている。36年7月没、享年74歳。」とある。

 余談であるが、今回は作品を紹介する際、額も含めた画像にしてみた。理由は水彩画が入っている額は元額と思われ、しかも相当古いことが一目でわかったからである。念のため額の裏を確認したところ八咫屋のシールが貼ってあった。私が今まで目にした八咫屋の額とは似ても似つかぬものに驚いてしまったことも理由である。額は素朴で、現在、時々目にする洒落た出来栄えの額装のイメージは微塵も感じられない。寧ろ八咫屋開業時の額の可能性があり、資料的にも貴重なのではと考えている。一方、八咫屋は明治28年(1895年)に銀座に額縁屋を開業しており、野崎の在京時(明治16年~20年)と合致せず、野崎は八咫屋から直接額を買うことは不可能であったと思われる。若しかしたら、帰郷後に師である殿木の手配で購入したのかもしれない。これらの事から作品の制作時期も明治20年代後半から30年代初頭の間に絞られると見るべきであろう。

 最後に<杉木立に群れる鹿(仮題)>について興味深い情報が見つかった。「愛知洋画壇物語PARTⅡ」によると、手元の水彩画と同じ場所を描いた作品の図版が掲載されていた。両者の違いは鹿の数が少ないことである。N氏が「東京のいのは画廊から頒けていただいた」と記していた。これで野崎は少なくとも同じ場所で似たような構図の作品を2枚制作していたことが判明した。野崎自身がこの場所をよほど気に入ったものと思われる。

 またまた話がそれるが、野崎に関する嬉しいニュースを目にした。それは2021年10月、「発見された日本の風景」展(於:京都国立近代美術館)に珍しく野崎の作品が展示されていることを知った。現存作品が6点と少ないためか、これまで埋もれていた野崎について、ようやく僅かな光が当たり始めたようで、作品所蔵者としては素直に喜びたい気分である。

<参考資料>
明治期美術展展覧会出品目録   愛知洋画壇物語PARTⅡ
 愛知画家名鑑   甦る日光・社寺を描いた水彩画展図録
 20世紀 愛知の美術展図録  日本近代美術発達史 明治篇
 発見された日本の風景展図録   太平洋美術会百年史
青森県における明治期の美術(對馬恵美子著)