粋狂老人のアートコラム
          光線画で名を馳せた浮世絵師の貴重な果物図・・・・小林清親
          初めて目にした静物画に思わず息を呑む・・・・

 
 私がこの版画と出会った時、時代を飛び越えた斬新さに一目で釘付けになったことを忘れることができない。構図を見ると小卓に柘榴とぶどう、卓の脚元に熟して大きく実が開いた二個の柘榴が配置され、卓後方の脚元に、房から落ちたぶどうの実が三個描かれている。第一印象は“熟した柘榴の実の描写に吸い込まれそうな“、どう表現すべきか適当な言葉が見つからず迷うが、今までに味わったことのない気分になった。私がそのように感じた理由がいくつかある。一点は私の知る清親作品とはまるで違う作風に驚いたこと。二点目は、卓のサイズがぶどうの房や柘榴と比べても異常に小さ過ぎること。三点目は、何故か卓上のグレー系のぶどうの房や、右側の柘榴も背景と相まって現実離れした色合いに見え、静物画にしては、まるで工芸品のような不思議な世界を感じたこと。その上、左側の柘榴の葉(?)のような斑点のある不明な物が描かれ、私に「どうだ、わかるか」と問い掛けられたと錯覚したことかもしれない。𠮟らば受けて立とうと・・・・

      
            柘榴と葡萄   24.3×37.6㎝

 清親は明暗を強調し、輪郭線を用いない空間表現の光線画で一世を風靡したと言われる浮世絵師であるが、途中でその画法は取り止めている。若しかしたら、この果物図は光線画の余韻が残っているのであろうか。改めて画面を見ると、卓上の柘榴、ぶどう、卓の下の二個の柘榴には右側上方向から光が射していることが一目でわかる。さらに小卓も光の当たっている天板の側面や脚についても、明暗の表現を疎かにしない作者の姿勢が見て取れる。他の対象物はどうであろうか、柘榴、小卓脚の側の三個のぶどうの実など忘れずに影を付けていることが確認できる。 
このように仔細に見てくると、卓上の中央の柘榴は、「現実離れした色合いに見え・・・工芸品のような不思議な世界を感じたこと」と先に書いたが、作者は実の右側半分は光が当たり白茶けた表現とし、左側半分は暗く陰影を表現したと見るのが正しいようだ。ぶどうの房も同じように光が射した状態を表現したことがわかった。また、うっかり見逃したが、卓上の右側の柘榴は枝付きで、右上方には緑色の葉も確認でき、枝は二個の柘榴の間を小卓の端まで伸びて、枝の切り口近くには二枚の葉も確認できる。
他にも目に付くのは、卓の二本の脚を補強するような横板に見事な漆絵と思しい模様が確認できる。細かいところでは、中央下部の実の割れた柘榴の下に二個の実を描いている。しかしながら、仔細に見ても不明な箇所がある。卓下の左側の柘榴に接した黄色に斑点のような部分である。所謂、柘榴の熟して割れた部分なのかどうか判別がつかない。なおも諦めずに凝視すると、ぶどうの葉であることに気付いた。葉と思える部分に葉柄が描かれていることから間違いなさそうである。下部中央の実の割れた柘榴にも、同じようにぶどうの葉が描かれ、葉柄が確認でき、何とか作者の問いかけに答えられたと思うが、果たしてそうだろうか。

 ところで、絵画鑑賞の仕方は人それぞれであり、このように細部にわたり見なくともよいのではと思われる向きもおられるであろう。以前、ある資料で目にした言葉に、「画家が丹念に描いたものと同じだけ見る側も丹念に眺めれば、絵は多くのものを返してくれる。」と書かれていたことを思いだした。一方、私は性分なのか、それとも若い時分に絵をかじったことが影響してか、物事をはっきりさせたい思いがあるようだ。このような鑑賞の仕方では疲れてしまうと他人は思うかもしれないが、本人は平気で、寧ろメリットもあることを実感している。それは結果として、作品や作者を記憶することに役立つ手助けになっているからである。

 肝心の何故この版画を買い求めたか、それは清親の果物図は数が少なく貴重であることが理由である。私は今まで多くの清親の作品を目にしてきたが、その大半は「東京名所図会」、日清戦争などの「錦絵」、社会批判を鋭くした「風刺画」であった。珍しいところでは<カンバスに猫><鶏にトンボ>を「浮世絵から写真へ」展(於:東京都江戸東京博物館)で観た記憶が残っているが、今回取り上げたこの種の静物画は初めて目にした。それだけに出合った瞬間に心に響くものがあったと記憶している。

 清親を理解するうえで参考になる資料があるので紹介したい。それは近代日本美術家列伝の中で、山梨俊夫氏が担当した解説文である。一部引用すると『小林清親の版画は、彼の生存中から人気を博していた。その理由は、木下杢太郎の言葉を借りれば、なによりも、「夢の如く感じてゐた情調なる表現」をもっていたことによる。その情調とは、「江戸時代からの伝統の文化感情がなほ残ってゐて、それが建築なり市街風景などの客観物に看られる。また人々の生活様式に存してゐる。それへ外国主義を雑ぜた文化感情が浸透してくる。」という明治の初めの時期、変わっていくものと変わらないものがともにあって、互いの落差のためにその共存が独特の彩りをもつことから発生する。杢太郎は、それを「夢の時代」という。そして夢は素早く醒めていく。清親が描き表わしたのは、その夢のひとときであった。清親の名を歴史に残すのは、そうした、古さと新しさが入り混じる風俗を織りこんだ東京の風景版画によっている。中心はそこにあっても木版画と石版画を用いた清親の仕事は、もちろんそればかりではない。風景版画は、しだいに東京からその周辺に範囲を広げ、幾多の人物と、ときに静物も版画とし、一方で、社会批判を鋭くした風刺画、そして日清、日露両戦争を題材にした戦争版画も数多く残されている。変貌をとげる東京を見る眼、社会のぎくしゃくした部分を揶揄する眼。清親がそんな眼を育てたのは、彼の境遇、とりわけ維新期の変貌をどの位置から見ていたのか、ということと無縁ではないだろう。』とあり、時代は違うが、杢太郎、山梨両氏ともに、清親の作品を目にし、冷静に分析していたように感じるのは私だけであろうか。

 最後に簡単に略歴を紹介することにしたい。資料によると清親は「1847年江戸本所御蔵屋敷(現在:墨田区)に生れる。幼名は勝之助。15歳で元服し、清親を名乗り、家督を継ぐ。1865年、徳川家茂に御勘定下役として随行し、翌年の鳥羽・伏見の戦いに加わる。大政奉還後、徳川慶喜一行と静岡に移住。1874年(注)、生計を立てるため上京し、芝浜松町や源助町に住み、絵師を志す。源助町は錦絵や浮世絵の木版下職人が多く住んでいた。その頃、横浜の下岡蓮杖を尋ねる。1876年、木版画を発表して世に出る。同年8月に<東京名所図>シリーズを版行する。色彩の明暗を用いて臨場感を高めた「光線画」が人気を呼ぶ。1881年、「団団珍聞」に入社し、社会風刺漫画を、木版錦絵、石版画、銅版画で描き、新聞の挿絵とした。所謂、「清親ポンチ」である。1884年に団団珍聞を退社後、「清親画塾」を開く。1900年「二六新報」に入社するが、1903年退社。1915年没、享年68歳。」とある。

 余談であるが、金原宏行氏によると「清親は榊原鍵吉という江戸で幕府講武所師範に任命されていた剣術の名人と再会した。榊原は維新後静岡に転じ、東海道を剣術興行しながら巡っていたが、かつての知り合いで六尺二寸という大男の清親を見込んで剣術興行団員の一人となるように誘ったのである。清親はこの誘いに応じ東海道を興行団の一人として歩き出し、ひそかに願っていた本式の絵画の勉強もしようとしたのであった。剣術興行団での彼の役目は黒胴を着け竹刀を構えて見世物場の幕前に立つことであったという。むろん剣道は上手でなかったからである。」と書いており、清親が未だ見えぬ目標に向かって行動に移したことが読み取れる逸話を知り、清親の知られざる一面を垣間見た思いであった。

注、清親の上京は1873年説もあるが、今回は1874年説を採用している。
注、清親が学んだ師については、複数の説もあるが、根拠となる資料も確認できないことから略歴に含めることを省いている。

<参考資料>
近代日本美術家列伝  版画(小野忠重著)  美術八十年史(森口多里著)
日本絵画三代志(石井柏亭著)   浮世絵から写真へ展図録
明治期美術展覧会出品目録    発見された日本の風景展図録
静岡県の美術風土記(金原宏行著) 小林清親展図録
明治の版画 岡コレクションを中心に展図録